日本統治時代の大工事
花蓮県吉安郷横断道路は、3級古跡であり、日本統治時代は「能高跨越道路」又は「能高越道路」と呼ばれていました。
日本統治時代に東西に向かう重要な道路であった「吉安横断道路」は、日本人が「能高越嶺旧道」を基礎に修築を進行させたため、「能高跨越道路」又は「能高越道路」と言う名が付いたようです。この道路は、「東西横貫道路」の前身であり、現在の「中横公路」ではないんですね。
当初、日本から5万8千名余りを動員してまで横断道路を掘った目的は、太魯閣族の原住民の起こす抗日事件を制御するためだったようです。1917年の9月に、8500名の警備員、職員1万4千人、作業担当者3万6千人によって横断道路の切り拓きが始まったのですが、その施工の過程は大変困難なものでした。
台湾の地形は中央山脈の影響を受け、東西部は隔てられ、往来が不便である上に、東部は長い間原住民族の集中しているエリアでした。
この横断道路は「初英」を起点に、木瓜溪に沿って海抜2千4百24メートルの天長山、経桐里、奇莱山荘、東能高をよじ登って越えた後、再び霧山が後に続く海抜2千8百18メートルの奇莱山の主峰を越えなければならないという、非常に過酷な工事となったんですね。
花蓮県政府が委託した民間団体の研究調査の報告によると、吉安横断道路の施工期間中に怪我や死亡した労働者のほとんどが岩壁に発破を掛けた時に起こったものということもわかってきているようです。
その上当時使われていた機材も相当貧弱であったため、ほとんど作業担当者の人力に頼っていたようなものだったらしいです。
亡くなった人々さえ、運んで下山する事ができなかったため、油布(oilcloth)で包んだり、薄い板で作った棺に入れられて埋葬されただけだった・・・というような状況を余儀なくされていたようです。
全線の道路の路盤が出来上がり、開通後の1918年1月にやっと殉職者のために高さ約100メートル、幅約66メートルの片麻岩(へんまがん)で作られた記念碑を設けることが可能となりました。
そして、この記念碑以外に設けられたのが「吉安郷横断道路開通記念碑」です。
高さ約160メートル、幅約74メートルの玄武岩(玄武岩)で出来たこの「開通記念碑」は、もちろん大正6年9月から7年1月(1917~1918年)の間に行われたこの大掛かりな工事を記念するために建てられました。石碑の上には日本国籍の幹部と作業員の名前、工事に要した人力、経費、距離などの簡単な紹介が書かれています。