石柱の運搬作業が結局上手くいかず、日本の考古学者たちは、結局、日本への持ち出しをあきらめることとなり、掃叭石柱はその後しばらくは、そのまま放置される形になっていました。
(「掃叭石柱遺跡 Vol-1」は ←こちらから)
日本統治時代が終わり、民国65年に宋文薫という人が、東海岸巨石文化を研究していた際に、この掃叭石柱遺跡の話題が少し盛り上がったようですが、報道自体は簡単な説明があるだけで終わってしまい、結局大掛かりな調査などへ発展していかなかったようです。
その後も今にいたるまで、正式が考古学的な調査・発掘は行われていないようですが、周辺では、陶器の破片や石斧、石小刀等の石器が見つかっているみたいですね。
言い伝えによると、石柱は元々は地上に横たわっていたようですが、民国60年、瑞穂郷役場が、短い方の石柱を今のように縦置きになるように置き直し、その後、今のような形になっていったようです。
短い方のその石柱には美しい伝説があるそうで、阿美族の人々は”望夫石”と呼んでいます。ある角度から見るとまるで阿美族の女性が呆然と遠くを見つめているように見えるようですよ。
北部台湾、又は東部台湾にてロングステイや観光に訪れている方々は、ぜひぜひ、この掃叭石柱に足を伸ばしてみてはいかがでしょうか。眺める角度をいろいろと変え、さまざまな方向から石柱を眺めてみると、ひょっとしたら、意外な発見があるかもしれませんね。
場所:花蓮県瑞穂郷舞鶴村
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http://www.nhlue.edu.tw/~gis/1002.htm